2005年3月

苦しみ、痛み、悩み、わだかまりの果てに
齋藤紳二助祭

画家で芸大学長の平山郁夫さんが、少年のころ広島で原爆の被害を受けたことは、広く知られています。

中学生の夏、原爆が投下された直後の広島市を縦断して港にたどり着き、我が家のある島に逃げのびましたが、その後、生死の境をさまよいます。
幸い一命をとりとめて成長し、芸大に進学して主席で卒業しました。
助手として大学に残り、後進の指導と画家としての道に専念することになりました。
結婚して子供もできた26歳のころ、急速に体力が低下し始めます。
白血球が増えると同時に赤血球が減少する典型的な原爆症の症状です。
平山さんは死を覚悟しました。

しかし、画家を志したのに、人々を感動させる作品を一点も残さずに死んでしまうことは、どうしても受け入れられませんでした。
なんとかして後世に残る作品を描きたい……
平山さんは命がけで作品の構成を考えました。
そして、三蔵法師が経典を求めて命がけでインドに旅をし、目的を達して帰国する途中の情景を想像で描くことにしました。
そこには、平山さん自らの救いを求める思いがこめられていました。

「仏教伝来」というタイトルをつけて展覧会に出品したところ注目を集め、これをきっかけに当代一番の人気画家への道をかけのぼっていきます。
あれほど心配だった健康も徐々に回復し、私が仕事で頻繁にお目にかかるようになった20年ほど前には、原爆の被害を受けたとは思えないほどの精力的な活動を展開しておられました。

平山さんは自分の重い十字架を投げ出してしまわずに、しっかりと肩にかつぎ、病気の苦しみの中で望みを昇華させ、その痛みを芸術の神ミューズにささげたのでしょう。
その結果、予想もしなかった道が開けていったのです。

四旬節の間、私たちは平山さんと同じように自分の苦しみ、痛み、悩み、わだかまりといったあらゆる十字架を背に負い、キリストと共に受難の道を歩みます。
そして、その十字架をささげものとしてキリストにゆだねるとき、復活祭の喜びがリアルなものとなって私たちをつつむのです。
その日を待ち望みながら、痛悔と犠牲の時をすごしていきたいと思います。

教会報 2005年3月号 巻頭言

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