2005年9月

愛することは包むこと
藤田恵神学生

今年の夏休みには行けませんでしたが、昨年、一昨年と、社会体験の一環としてわたしはイースターヴィレッジに滞在しました。
この施設は、親の虐待、ネグレクト(育児放棄)等で、親と一緒に生活できない子供たちが寄り添い、職員の人々と共同生活しています。

子供たちと共に過ごす中で感じたのは、小さい子供たちの愛情への渇きです。
ある子は肩に飛び乗り、腰や足に抱きついてきます。
またある子は、いきなりハリセンでポカッと頭を叩いてきます。
いずれも、自分に関心を向けて欲しいという意思表示です。
そんな子たちと関わりながら思うのは、イエス様なら彼らにどう接しただろうかということです。

答えは、マタイ19章13−15、マルコ福音書10章13—16、ルカ18章15−17にあります。
イエスに祝福してもらおうと人々が子供たちを連れてきたとき、弟子たちは人々を叱ります。
しかしイエスは
「わたしのところに来させなさい。妨げてはならない。……子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
と、ピュアな心こそ大切なのだと説きます。

わたしが注目したのは、マルコ福音書だけにある「子供たちを抱き上げ」という表現です。
「抱き上げる」というギリシャ語は、εναγκαλιζομαι(エナグカリゾマイ=抱く)という単語で、新約聖書の中では、他にマルコ9章36節にでてくるだけです。
「εν」は「~の中に」で、「αγκαλη」は「腕の屈曲部」という意味。
つまり「腕の中に包む」という意味から抱くと訳されるようです。
人と接するとき、精神的にも肉体的にも最大の愛情表現は、「抱擁」ではないでしょうか。

わたしたちは自分が無力であると感じたとき、それでも立ち上がれるのは、主がわたしたちを包んでくださっていると感じるからです。
主が守ってくださるから勇気が出るし、主がわたしたちを愛してくださると感じるから、人を愛することができるのです。

イースターヴィレッジの子供たちは、親と一緒に暮らせません。
しかし主が注がれる愛は、全ての子供たちにみな平等のはずです。
イースターヴィレッジの子供たちに注ぐ愛情を主から託されているのは、わたしたち一人ひとりではないでしょうか。
9月25日にイースターヴィレッジ支援のためのバザーが開かれます。
わたしたちが子供たちへ愛を注ぐ、精神的な抱擁をするという気持ちでバザーを成功させることができたら、すばらしいことだと思います。

教会報 2005年9月号 巻頭言

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