2006年7月

「癒し」とは「奉仕する」こと
藤田恵神学生

日本国内の自殺者の数が1998年に3万人を突破して以来、そのボーダーラインを割ることがありません。
先日の新聞では、児童虐待の相談件数が2004年に初めて3万件を突破し、2005年も突破したと報じられていました。
社会のストレスが強くなるのに比例して、一番守られねばならない家庭の中さえも、子供にとっては安住の地でなくなってきているようです。

わたしは最近、家庭の苦しみを背負っている子から話を聞いて欲しいと言われました。
その子は、家庭の愛に渇いていました。
小さな魂が受けている痛み、複雑に入り組んだ愛憎をかい間見たとき、わたしも心の中で涙を流しました。
「なぜ子供が、こんなにまで苦しまねばならないのか!」と。

わたしは医療の専門家ではありません。
ひとりの友人として、話を受け止めつつ励まし、良い方向に迎えるようサポートするだけです。
わたしが関わることがよい結果を生むかどうか、正直言って自信はありません。

ただ一つ言えることがあります。
それは、愛の渇きは愛でしか満たせないということです。
その子を大切に思っていることを、言葉で語り祈ること。
これがわたしのできる精一杯のことです。

救いを感じるのは、その子が神様を信じる心を失っていないことです。
教会が心の救いの場となっています。
イエス様の癒しの話を思い出し、一緒に救いの軌跡をたどっていくと、私自身も心が洗われました。

英語のセラピー(癒し)の語源は、ギリシャ語の動詞Θεραπευω(テラペウオー)「癒す」から来ています。
これにはもう一つ「仕える・奉仕する」という意味もあります。
これは、癒しが奉仕する行為であることを意味しています。
癒しは上から治療する行為なのでなく、同じ視線で同伴し、支えていく行為なのです。

今、わたしは19世紀の英国のJ・H・ニューマン枢機卿の本を読んでいます。
彼の紋章にはラテン語で次のように書かれています。Cor ad cor loquitur(心が心に語りかける)。
味わえば味わう程、意味が広がり、癒しに共通するものがあると思います。

7月は子供たちにとって、楽しい夏休みが始まる月です。
すべての家庭で、親子が触れ合い絆を深めていければ—と祈っています。

教会報 2006年7月号 巻頭言

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