2006年12月

50回めのクリスマスに
齋藤紳二助祭

私が洗礼を受けたのは、高校2年生のクリスマスでした。

その日、まだ明るい日差しが差し込んでいる聖堂に10人ほどの受洗者が集められました。
当時クリスマスのミサは午前零時からと決まっていました。
10名の受洗者ではミサの終わる時間が2時、3時になるため、洗礼式の前半部分を早めに済ませておこうという計画だったようです。

洗礼式が始まって間もなく、真っ先に並んでいた私に神父さまが「洗礼名はなんですか?」と尋ねられました。
現在では洗礼名は式の終わりに司祭から「あなたの洗礼名は○○○○です」と申し渡しますが、当時は本人が選んだ洗礼名を司祭が冒頭に尋ねるという形式をとっていました。

ところが、私は洗礼名はてっきり神父さまが授けてくださるものだと思い込み、何も考えていませんでしたので、あわてて「分かりません」と答えました。
神父さまもちょっと困った表情を浮かべられましたが、すぐに小声で「フランシスコはどう?」と聞かれました。
私も小声で「それでいいです」と答えました。

こうして私の洗礼名が決まりました。

この日、私はイエスと聖フランシスコとに硬く結び付けられたはずですが、実のところ、私自身は神の存在を信じられない状態でしたし、フランシスコについてはまったくの無知でした。
体験の中で「神は存在するらしい」ことに気付いたのは40歳を過ぎてから、聖フランシスコの本当の偉大さを知ったのはそれから更に10年経ってからのことでした。

洗礼式での滑稽な受け答えも、長かった回り道の年月も、現在の私に対して何かの意味をもっていたような気がしますが、まだその答えはみつかっていません。

今年は私の受洗50周年にあたります。

教会報 2006年12月号 巻頭言

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