2007年4月

私たちは聖なるもの
齋藤紳二助祭

ご復活おめでとうございます。

先日、5日間にわたる黙想会に参加させていただきました。
しかし、いくら眠っても眠り足りない状態で、ほとんどの自由時間をベッドの中で過ごしてしまいました。

黙想に当てたわずかな時間に、ひとつの言葉が私の頭に腰をすえつづけていました。
それは、ヨハネ福音書のイエスの最後の言葉、「成し遂げられた」でした。

これまでこの言葉を意識したことはありませんでした。
昔の聖書では「なり終われり」と訳されていたので、若かった私は「私は死ぬ」という意味だと理解し、そのままこの歳になるまで、気にもしないで過ごしてきました。
しかし、なぜか、この黙想会の間、この言葉が私の頭から出て行かないのです。一体、イエスはどんな意味を込めてこの言葉を口にされたのでしょうか?

さまざまなことが頭の中を駆け巡りました。
御父からゆだねられた「あがない」のわざが完成したことを宣言し、御父の栄光を表すことができたことを安堵する人間イエスの思いが込められていたでしょう。
でも、それだけではないような気がします。

ヨハネ福音書の別の箇所で、イエスはこう語っておられます。
「世から選び出してわたしに与えてくださった人々を・・・聖なるものにしてください。」
選ばれてキリストの弟子となった私たちを、御父の慈しみによって「聖なるもの」にすることが出来たことを、イエス自身が喜んでいるとも読み取れます。

もし、私の推測が当たっているなら、イエスは死の瞬間にも私たちのことを考えていてくださったことになります。そ
のことに気づいたとき、眠ってばかりいた黙想会でこれほど深いイエスの愛を知り得たことに感謝せざるをえませんでした。
これも聖霊の導きだったのかも・・・。

教会報 2007年4月号 巻頭言

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