2007年10月

ロザリオの月に思う
齋藤紳二助祭

外国籍の人々を支援していて、ときどき悲しい思いをします。

収容所で苦しんでいる人たちを、支援者たちは精一杯支えています。
時間と労力を費やし、ときには多額のお金もつぎこんで、彼らを助けています。
ところがその結果、助けてもらうことを当たり前と思い込んでしまう人がでてくるのです。
自分の思うように事が運ばないのが支援者の怠慢だと責めたり、自分では何もせずにひたすら要求を押し付けてきたりします。

支える側は感謝の言葉を求めているわけではないのですが、つらい思いをしながら出来る限りのことをしているところへ、冷ややかな非難の言葉を投げつけられたりすると、心の支柱を外されたように、落ち込んでしまいます。
最近は、収容所に閉じ込められている人のケアよりも、支援者仲間を慰め励ますことの方が多くなったような気がします。

かつてアフリカを旅した曽野綾子さんが、貧しい国々を無計画に援助することによって、彼らの自立心を失わせてしまっていると指摘されたことがありましたが、それと同じ現象が見られるのです。

では、私はどうでしょうか。
日々の祈りの中でいろいろなお願いをします。
しかし、その願いをかなえていただいたとき、心から感謝をささげているかどうか自問するとき、他人を責められない自分を発見します。
願いがかなった喜びに夢中になり、自分のために大きな力が働いてくださったことに思い至らないのです。

とくに今月はロザリオの月。聖母のとりつぎを期待しながら祈る機会が多くなります。
ささやかな願いに耳をかたむけてくださるだけでも、感謝しなければならないと思いながら祈ることができれば素晴らしいのだが……
そう思っています。

教会報 2007年10月号 巻頭言

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