2008年9月

謝ることは暴言を消す消しゴム?
鈴木三蛙神父

言(ことば)の内に命があった・・・ヨハネ1の4

先日、ある受刑者の手記に出会いました。
かれはそこに次のような文章を寄せていました。

「人と人との間にあるもの・・・それはコトバと心です。
時としてコトバは凶器となり、またある時は、人を助ける救世主となります。
私は今までの人生の中で、いじめ、虐待、暴力と、いろんな形で精神的に追いつめられていました。
そんな私を救ってくれたのは、周りの人たちのコトバでした。
みんなのコトバに支えられ、今の私があると思っています。
また腹が立った時、つい相手を傷つけるようなコトバを吐いてしまい、あとでとても後悔し、謝ったことがあります。
謝ることで私の気持ちはホッとし、何となく満たされましたが、相手はきっと、多少気持ちが落ちついたものの、心の傷は消えないままだと思います。
私は『謝る』ことは、暴言を消す『消しゴム』だと、気づかないうちに思いこんでいました。」

私たちは、ついつい他人を傷つけるコトバを口にしてしまうことがあります。
この手記を読みながら、ある神父さんの与えた償いを思い出しました。
いつも許しの秘蹟の時に
「他人の陰口を言ってしまいました」
と同じ罪を告白するご婦人がいました。

ある日神父さんは、
「家から教会まで鶏の毛をむしりながら、道に撒いてきなさい」
という奇妙な償いを命じました。

婦人が何とも不思議な償いだといぶかりながらも言われたとおりにして、
「神父様おっしゃるとおりにしました」
と報告しますと、神父さんは、
「それでは、今度はその羽を全部集めてきなさい」
と命じます。

婦人は目を丸くして、
「神父様そんなことは無理です。みな風に吹かれて飛んでゆきましたから」
と答えたところ、
「あなたの陰口も同様に、一度口をついて出たなら、もう取り消すことは出来ないのですよ」
と諭したということです。

私たちの日常生活の中でも、教会の中でも、同様のことは起こりえます。
「謝ることは暴言を消す消しゴムにはならない」・・
自分に大きな反省を迫る、心に残るコトバでした。

教会報 2008年9月号 巻頭言

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