2009年1月

おいしいところ=宣教?
姜玟周神学生

いつの間にかまた新しい年が来た。
年末になると例年通り、「今年何をしたんだろう」と思っているうちに、時間はそのまま流れ、新しい年が来てしまう。
たぶんこの2009年の終わりごろにも同じことを言ってるんだろう。

さて、クリスマスや年末年始、いろんな会がある。
自分がその忘年会、新年会、同窓会などの担当になると食事の種類や場所選びなどで悩むことが多い。
誰かが良いところを紹介してくれるのであれば、たいへん助かる。

宴会、食べ物、おいしいところ・・・、おいしいというところで、半年ほど前に東京教区の同級生が話したことを思い出した。

「宣教はね、そんな難しく考える必要はないんだよ。おいしいお店を紹介するのと同じ」

どこまでが彼の話で、どこからが自分の考えか、記憶がはっきりしないので、全部彼の話にしよう。
彼によると、宣教はおいしい店を紹介するのと同じことだそうだ。
偶然に、あるいはある人の勧めである店に行く。
そしてそこで勧められたもの、あるいは自分が好きなものを食べる。
もしその味が自分に合って、おいしい~と思うようになると何度も行く。
そしてそれにとどまらず、自信を持って、自分が大きな発見でもしたように、他の人に紹介する。
「あそこはね、おいしいんだよ、行ってみてね。私のお勧めだよ」。
極めて平凡な日常の会話だ。

宣教も同じで、先ず教会に行く。
そして通い続けさせられる何かを感じる。
すなわち、おいしいところを見つける--自分にとって救いになったところ、これだと思うところ、あるいは自慢のところなど。
とにかく、そのおいしいところを見つけてると、おいしいお店を紹介する時と同じように、自然に他の人に勧められるようになる。
それが宣教だということであった。
確かにそうだなと思った。

そこで問題は、自分なりのおいしいところがあるか?である。
自分の信仰にどれほどのおいしさを感じているかが焦点。
そして、それにどれほど自信を持てるか。

味というものは人によってそれぞれ違うし、正確には説明できない。
ただ自信を持って「おいしかった」と言えるくらい。
言えるのであれば、それでいいと思う。

今年2009年の終わりころには、自分にとって教会の本当のおいしいところを見つけて、「こっちこっち、これがおいしいよ」と言いえるようになったらいいかな、と思いながら、もう午前1時なので寝よう。

教会報 2009年1月号 巻頭言

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