2012年6月

「在る」 「いる」 召命
吉川孝政神父

先日、浦和教会の主日のミサの後で、ある高齢の女性と立ち話をしました。その時、話を聞きながら、すごく感動しました。聞きながら、「在る」「いる」召命について考えました。

私たちは若くて元気な時はいろんなことができます。しかし年をとり、病を得ると、これまで出来ていたことが出来なくなる。そういう中で、「出来る」ということの主眼を置きすぎると、出来なくなった時にアイデンティティーが壊れる可能性があります。

おじいちゃん、おばあちゃん方が、「もう教会のために何も出来ない」と言ってくることがあります。そういう時、私は答えます。「私たちには、どんなに体が動かなくなっても、最終的に出来ることがある。それは祈ることです」。

皆さんが祈りの力を信じ、祈ってくれれば変わります。いま、若者が来ないといった問題があります。真剣に祈ればきっと神様が応えてくれます。

「出来る」ことに主眼を置くのでなく、「在る」ということを大事にする。どんなに体が弱ろうが、出来なくなったとしても、在り続けることの大事さ。うつ病で苦しんでいる、ある神父さんは、「あなたは寝てても、司祭なんですよ」と言われたそうです。それを聞いてすごく助かった、「あ、俺は寝てても司祭なんだ」と実感できたそうです。

神の本質は、「在る」ということ。神の似姿として、私たちも「在る」。存在することを原点として、信仰生活を送っていくことが大切です。出来ることの大切さもありますが、出来るためには、まず「在る」ことが始まり。「在る」「いる」という原点に立ち戻ってはどうでしょう。活動中心になると、高齢者、子どもたちなど、「自分は何も出来ない」と苦しむ人がいるのが現実です。世の価値観に振り回されず、「在り続ける」ことの大切さ。キリスト者として「在り」続けることの大切さ。そのことを伝えたい。「在る」ことの召命をあらためて振り返っていただきたいと思います。私も司祭で在り続けることは、当たり前のことではないのです。

主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております。(サムエル上3・9)

教会報 2012年6月号 巻頭言

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