2012年12月

弱さとともにおられる神
吉川孝政神父

今日、12月2日から待降節が始まりました。この4週間をかけて私たちは、主を迎える準備をします。普通、私たちは「主を待ち望む」と言いますが、実は、「神さまこそが、私たちを待っている」と考えられるのです。

神は、人と共にいたいがために、この世界の歴史の中に入ってこられました。それは、神が人となる、イエスがこの世にお生まれになる、という形を通してです。しかも、「幼子(おさなご)」という、最も弱い姿で、私たちの前に現れました。

毎年、降誕祭には、それぞれの教会で準備された馬小屋に幼子イエスの像が置かれます。幼子の姿を見ると、私にはどうしても、それが十字架上のイエスと重なります。共通するのは、無力な神の姿です。幼子イエスの姿と、十字架上のイエスの姿。それらはまた、ミサの中のご聖体を見つめるたびに思い起こされます。このパンもまた頼りない、小さな体だからです。私はずっとこのように感じていて、この神の弱さを感じるからこそ、イエス・キリストを信じる、とも言えます。神は、人と共にいたいがために、自ら弱くなられたのです。

私たちが今いる社会で人は常に競争にさらされ、人の弱さをなかなか認められない社会です。しかし私は神のこの弱い姿に力づけられます。誰かと張り合うとか、競争するとか、それを超えた道を、幼子の姿、十字架上のイエスの姿を通して、神は私たちに教えてくれていると感じます。私も、そうありたいと思っています。

なかなかうまくいかない時もありますが、自分の弱さを認め、主からの恵みを、この季節に特に願っています。

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1・23)

教会報 2012年12月号 巻頭言

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