2016年6月

5月29日、キリストの聖体の主日
佐藤智宏神父

主イエスは引き渡される前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の席にて、一緒にいた弟子たちにパンを取り、父なる神に感謝をささげてそれを裂き、「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と仰せになった。
この出来事を、使徒パウロは今日2番目に朗読された1コリントの手紙において書き記しています。
聖書の中でも、このパウロの記事が最古のものであると聖書学者たちは見ています(AD50年代半ば以降とみられる)。
迫りくる十字架の死を予期して、主イエスは、どのような自覚をもってその不条理な死を受け止めようとしておられるかを、最も長い間、ともに神の国をひろめるために働いた12人の弟子たちに言い残しました。
この「主を記念する弟子たちから発した集い」が、今のわたしたちの教会の誕生の源でもあり、世界中のカトリック教会で行われている、この「ミサ」始まりでもあります。

今年、川口教会にて、6人の子どもたちが初聖体を受けました。
前日の土曜日にゆるしの秘跡と式のリハーサルをしているときはまだ聖堂に人がいないので、大きすぎる声で返事をしたり、おちゃらけたムードでしたが、いざ本番になると人も満員であるせいか、大変緊張した様子が見られて、でもイエスさまのからだをいただくときは、喜びの雰囲気を子どもたちの内にあることを私は感じ取りました。

とても素晴らしい「記念」の出来事だったと、子どもたちの表情に表れていました。
しかし、この「記念」ということを考えるとき、イエスさまのからだをただ「過去の良い思い出」として振り返るだけでは困ります。
その意味が中心ではなく、むしろこの1回限りの主イエスの晩餐の出来事が、このミサにおける主イエスと同じしるしとなることばと行為によって、彼の十字架の死と復活のまるごとの救いの出来事が「今、この場で」現実のものとなる、この信仰の面から来る事実をこれからも、大人になっても深めることが大切です。
時を超え、場所の制限を超えて、民族の垣根を打ち破り、世界中、この主イエスと同じ行為とことばをささげるミサが、その1回限りの最後の晩餐の出来事を現実のものとする、これが人間のすべての能力をはるかに超えた神の神秘なるわざです。
初聖体を受けた世界中のすべての子どもたちの上に、主イエスの「死んでも生きる」尊いからだに結ばれて、父なる神のいつくしみに満ちた守りと導きがこれからもありますように。

教会報 2016年6月号 巻頭言

Script logo