2021年6月

みんな宣教者
安鎭亨(あん じんひょん)

東京カトリック神学院の新学期を迎えて、4月から浦和教会での宣教司牧実習が始まりました。
韓国の神学校ではそういう実習がなかったのでドキドキしながら週末を待ちました。

生まれ育った韓国で、宣教は自分とはあまり関係ないことだと思いました。
時たま海外で宣教師として働く先輩の神父様が神学校に戻っていろんな武勇伝を話すと「すごいなぁ」とか「苦労してるねぇ」くらいの反応でした。
それから時間が経って、わたしは日本に来ました。
なんと、宣教のために宗教ビザを取って。宣教は神様の愛、主イエス・キリストの福音を聖霊の助けによって告げ知らせることだと、頭では理解しながらも、自分が本当に宣教師なのか、まだはっきりと言うことはできませんでした。

教会の宣教の歴史を振り返ってみると、人間の弱さと神様の摂理が明らかになるときがあります。
ディアスポラのユダヤ人をはじめ、サマリア人を含める異邦人までさまざまな信者は最初ペトロとエルサレム共同体の興味外でしたが、神様は彼らの頑固な心を改めました。
そしてアンティオキアでイエスを信じる「異邦人」の信者が「キリスト者」と呼ばれ始めました。

迫害の時代を過ぎて、ローマ帝国に認められた教会は安定期に入り、日常生活を通して信仰をあかしした「普通の」キリスト者による宣教活動はどんどんいろいろな修道院に役割を移しました。
困難な瞬間、必要な助けを求める教会に、神様はさまざまなカリスマをもつ人物を遣わされました。
西洋のカトリック王国による「剣と十字架」の宣教活動がアメリカ、アフリカ、アジアで大規模にあった時、教会は植民地主義や奴隷貿易などを黙認する過ちを犯しました。
この時から宣教とは文明化だとの誤解を人々の心の中に植え付けることになってしまいました。

2度の世界大戦が終わり、新たな変化を迎えることになりました。
教会も大きく変貌し始めました。
第2バチカン公会議は、教会のアイデンティティがその起源からして、本性上、宣教的であることを「再確認」しました。
それは、教会が宣教を「所有」しているのではなく、宣教が教会を「所有」していること、神の宣教のためにのみ、教会は存在していることの確認でした。

曲がりくねって来ていた宣教の歴史の中から2人の聖人を覚えていてほしいと思います。
浦和教会の保護の聖人であるリジューの聖テレジア(1873〜97)は、カルメル会に入会し、神様のもとに召さめるまで一度も世に出なかったのです。
それでも宣教のために祈りを続けたテレジアは、聖フランシスコ・ザビエルと共に宣教の保護の聖人となりました。

コルカタの聖テレサ(1910〜97)は、インドの貧しい人や見捨てられた人が抱えている闇の中にイエスの闇を見いだし、彼らに仕えました。
テレサは諸宗教の人々に洗礼を授けるのを宣教の目標にせず、愛である神様の宣教を受肉させました。
「わたしたちは偉大なことをするのではなく、ただ大きな愛をもって小さなことをするだけです」。
神の愛の宣教者会は世界の最も低い所で活動を続けています。

時代も状況も違うこの2人の聖人は、わたしに宣教とは何かを明確に示しています。
わたし、そしてわたしたち一人ひとりはみんな神様の宣教者です。
残念なことに、コロナ禍を過ごしている今の状態で、ミサ以外には信者の皆様と会う機会が少なくなってしまいました。
教会に集まることができなくなって寂しさを感じる方が多いと思います。
限られた教会活動で日常の信仰生活にも影響があると思います。
今のように困難な時期、教会はどう動けばいいのか、答えを見つけるのは簡単ではありません。
宣教者であるわたしたち一人ひとりのキリスト者が動く番です。

神様の宣教者である皆様。今、わたしたちにできることを自分なりに探してみませんか。

教会報 2021年6月号 巻頭言

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