2021年8月

「きみは聖母に祈るのかね?」
御前(みさき)ザビエル

フランスの小説家ベルナノスの作品で、「悪」と「聖性」の戦いが作品の中心に据えられている『田舎司祭の日記』をときどき読み返すことがあります。
その小説には、小さな町トルシーでの経験豊富な司祭と、聖ヨハネ・マリア・ビアンネをモデルにした田舎の若い司祭との会話がたくさん出てきます。
トルシーの司祭の質問で始まるその一つを紹介しましょう。

「きみは聖母に祈るかね?」
「もちろんです!」

「みな、そうは言う…ただ、きちんと祈っているかどうかだ。きみはちゃんと祈っているかね?
聖母はわたしたちの母だ。これはわかっている。聖母は人類の母で、新しきエバだ。
けれどもまた、人類の娘でもある。
古代世界、苦しみの世界、キリストの恵みの以前の世界は、長いこと―いく世紀もいく世紀も―聖母なる乙女のなにかしら漠然とした期待のうちに、彼女を悲嘆にくれた胸に抱いてあやしてきた…
いく世紀もいく世紀もその罪に満たされた老いの手、その重い手で、名も知らぬあこがれの幼女を守ってきた。
幼女、この天使の元后を!
聖母の眼差しこそ、まことに幼い唯一の眼差し、わたしたちの恥辱と不幸の上にあけぼのの太陽のように昇ってきた唯一のまことの幼な子の眼差しなのだ」。

どこの国でも、聖堂の聖母マリアの像のすぐそばに来て祈る人が必ずいます。
小さいころから、マリア様のやさしいあわれみの眼差しを感じ取り、祈っているに違いありません。
もちろん、聖母マリアへの信心は、そこにとどまらず、父と子と聖霊との深い交わりにわたしたちを導くものです。
信仰と愛のもっとも輝かしい模範を示したマリア様は、教会の母であるので、いつもわたしたちに「なんでもイエスの言うとおりにしてください」と励ましのことばをかけてくださいます。

聖母の被昇天を機会に、苦しいとき、祈れないとき、幼い心を失ったとき、助けを求めるとき、ゆるせないとき、マリア様に心から祈りましょう。

教会報 2021年8月号 巻頭言

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