2023年3月

「わたしは主に罪を犯しました。」(サムエル記下12・13)
御前ザビエル

45年前、静岡銀行の行員を「わたしが殺害した」と自首した男性がいました。
事件の詳細はともかく、人を殺害したこの男性は、「わたしの脳裏では犠牲者は生きています」と語り、自首することによって「そういう人生に少しはけじめがつけられる気がする」と思ったそうです。

また、被害者の両親に送った謝罪の手紙に、「この手紙を出すことによって、恐怖は多少安らぐかもしれませんが、良心の呵責(かしゃく)からは死ぬまで逃れることはできません。
お許しください」と書いてありました。
わたしたちはつねに、ゆるしの秘跡にあずかることによって、いただいている恵みの素晴らしさをあらためて思い起こします。
わたしたちも、犯した罪によって良心の呵責を感じ、その重みから解放されたいので、ゆるしの秘跡にあずかることがあります。

しかし、教会をとおしていただけるゆるしには、精神的な安らぎを味わう面があるにしても、それをはるかに越えるものがあります。
四旬節のはじめに、灰を額に受けたとき「回心して、福音を信じなさい」と言われました。
今こそ、ゆるしの秘跡を正しく理解し、そのはかり知れない恵みをいただくよう呼びかけられています。

第2バチカン公会議前は、ゆるしの秘跡を「告解の秘跡」という奇妙な名称で呼んでいました。
名称から考えますと、以前は、罪の告白がこの秘跡の核心だったかのようですが、実際に罪びとであるわたしたちの上に注がれている神のあわれみといつくしみを「告白」することこそがこの秘跡の中心です。

そもそも、わたしたちの犯した罪は、神との親しい交わり、人々との兄弟的なきずなを傷つけ、心を暗くさせ、霊的な敏感さを鈍くします。
そうなったわたしたちには、内奥からの罪への悔い改めの心が湧いてこず、ゆるしの秘跡に近づくほどの罪を犯していないと思ってしまいます。
聖霊の導きによってゆるしの秘跡に近づくとき、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9・13)とおおせになったイエスに、「主よ、見えるようにしてください」と祈ります。

「神よ、あなたのことばはわたしの足のともしび、わたしの道の光」(詩編119・105)であることを信じて、 神のことばによって、 自分の罪を見分けられるよう照らしを受け、神のあわれみへの信頼と、生き方を立て直す回心へと導かれます。
わたしたちに対する神の愛に心を打たれてはじめて、自分の罪を認め、 新たな心をいただくことができます。

復活徹夜祭では、 「救い主をもたらした幸いなる罪」と歌います。
イエスが十字架にかけられたとき、ご自分を苦しめた人がゆるされるように神に祈りました。
ゆるしの秘跡に近づくことをとおして、神の愛をためらうことなく祝いたいのです。
ゆるされた者こそが、この世界が待望している愛を分け与えることができ、豊かな自由と喜びを得られます。

教会報 2023年3月号 巻頭言

Script logo