福音の味

年間第30主日 A年(2020年10月25日)

神と人を愛する心(マタイ 22・34〜40)

イエスの時代には、聖書の中に、613の掟のうち、「しなさい」という肯定的248の掟と、「してはダメ」という禁止令の365の掟がありました。ユダヤ教の先生たちが、「どの掟が最も重要であるか」とイエスに尋ねるのは、ある意味で当然です。
イエスは、答えとして一つの掟ではなく、二つ取り上げます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」。この二つの掟は、同じように重要であり、また、フランシスコ会訳によると、「第二もこれ(第一)に似ている」と教えられています。神への愛、人々への愛は、とても重要な掟であり、しかもそれらは似ていて、その大切さにおいても、内容においても同じです。わたしたちの心は狭いので、愛に関しては、対象が違っても、一つの愛し方しかできません。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(一ヨハネの手紙4・20〜21)。
神を愛するとは、それは神のために自分の時間を割いて、「ありがとう、ごめんなさい」、お願いの祈りを毎日一生懸命にささげることです。隣人を愛するとは、同じように、相手のために、自分の時間を割いて、相手の話に耳を傾け、相手の喜びと苦しみに共感し、相手に気を配って大切に相手を労(いた)わることです。心を一つにして神への愛、隣人への愛に生きられますように。

年間第29主日 A年(2020年10月18日)

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(マタイ 22・21)

今日の福音の終わりにあるイエスのことばは、諺(ことわざ)になるほどに、有名なものです。簡潔な断言なので、イエスが何を言いたかったのかについてはさまざまな解釈があります。
ここでわたしは一つの解釈を提案します。
税金として納めるお金に皇帝の肖像と銘が刻まれています。皇帝のもの、すなわち、納めるべき税金、守らなければ正しい法律、そういったものを皇帝に返すようにとイエスは教えています。使徒パウロがその理由を述べています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマ 13・1)。
しかし、神のものは神に返すようにとイエスは勧めます。神のものとは、神の肖像が刻まれているわたしたちの心、神のかたどりと似姿として創造されたすべて人、わたしたちに与えられた聖霊によって心に注がれた神の愛、さらに、見えない神の姿である御子です。それらこそ、神のものとして神に感謝して返すのです。
毎日の生活において、出会う一人ひとりを大切にすることをとおして、神のものとなったわたしたちが、キリストの愛、聖霊による交わりを神に恩返しすることができますように。

年間第28主日 A年(2020年10月11日)

さあ、婚宴においでください(マタイ 22・4)

今日の福音朗読は、神とすべての人の交わりを、結婚の祝宴にたとえています。
それはとても分かりやすい話です。
ある王が、王子のためにお祝いの宴会を計画して、たくさんの人々を招きましたが、理由をつけて招きに応じませんでした。
そうすると王は、結婚の大きなお祝いだから、家来たちに、「見かけた者は誰でも婚宴に連れて」来るように言いました。
ご自分の愛の宴に、悪人であれ、善人であれ、すべての人を招いてくださる神は、何を望んでおられるかと言うと、造られているわたしたちと交わりを持ち、すべての人が一致して幸せであることです。
この宇宙の中に、すべて愛すべきことを選べる自由に恵まれ、かなり考える力を持っている被造物の中で、人間が一番優れている者です。
神がこの宇宙のいろいろな命を創ってくださいましたが、待っておられるのは、愛をもって応えてくれる人間の心です。
毎日、人との出会い、また「喜びと希望、苦悩と不安」を通して、絶えず「さあ、わたしとの交わりにおいでください」と招いてくださる神の声を聞き、喜んで応えていますか。

年間第27主日 A年(2020年10月4日)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。(フィリピ 4・6)

第2朗読には「どんなことでも、思い煩う(わずらう)のはやめなさい」とありますが、そう言われてもなかなかできません。
なぜ使徒パウロがそういう勧めをすることができるでしょうか。
この主日の朗読の前の5節にその答えがあります。
「主はすぐ近くにおられます。」
生きておられる主イエスは、わたしたちとすべての人を愛しておられるので、いつもともにいてくださいます。(マタイ 28・20)
さらに、神の国の完成が近づいていると信じています。
主が来られるのを待ち望んでいるキリスト者は、神に信頼するので、どんなことでも、思い煩いません。
自由な心で、「感謝をこめて祈り」、「求めているものを神に打ち明け」ています。
その祈りの実りは、平和の神ともにいさせていただくことです。
こうして、よく祈る人は、誰とでも平和のうちに生き、また、人を大切にする者は、よく祈る者でもあります。

年間第26主日 A年(2020年9月27日)

キリスト・イエスにもみられることを、互いに心がけなさい。 ~ 慈しみや憐れみの心(フィリピ 2・1~11) 

洗礼を受けた方が、「自分はカトリック信者です」と自己紹介することが多いと思います。
しかし、今日の第二朗読をよく読みますと、もう一つのもっと素晴らしい言い方があります。
それは、「わたしはキリスト者です」と自己紹介することです。
洗礼によって、キリストを着る者、キリストの弟子になる者、キリストに属する者となりました。
ですから、誇りを持って「わたしはキリスト者です」と名乗ることができます。
キリスト者として、嘘にならないように、キリストが示してくださった道を歩もうとします。
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、「 へりくだって、相手を自分よりも優れた者」であると考える弟子になれるように願います。
へりくだって、高く上げられた主イエス・キリストに倣って「慈しみや憐れみの心」を持つキリスト者でありますように。

年間第25主日 A年(2020年9月20日)

ぶどう園の労働者 ~ キリストの福音にふさわしい生活を送るように(マタイ 20・1~16)

今日の福音のたとえ話は、労働基準に基づいた話ではありません。神の国についてです。
使徒パウロが教えるように、神の国は「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ書14:17)
神の似姿に創られているわたしたちは、なんとなく「神の国」を感じるときがあります。
しかし、今日の第一朗読には「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55・8-9)とあります。
イエスは、このたとえを通して、どんな人であろうとも、神がすべての人にあふれる愛、慈いつくしみ、憐れみを無条件に、無償に、注ぐ方であると教えてくださいます。
すべての人が、神に愛され、生きるように呼ばれて、迎えられています。朝早く雇われた人、一時間しか働かなかった人、皆、一日に生きるための賃金、いわば、十分な恵みをいただきました。
神は、すべての人が生きられるように望んでおられる方です。
わたしたちも、日常生活において「あなたたちもぶどう園に行きなさい」の招きに応えて、出会う―人ひとりが「義、平和、喜び」のうちに豊かに生きられるように働きましょう。

年間第24主日 A年(2020年9月13日)

七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ 18・22)

ペトロがイエスに「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問しました。
私たちは皆、今まで、自分の人生の中で、両手の指を使って7まで数えて、人を7回ぐらい赦したことでしょう。
それで満足するところですが、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と「心の思いや考えを見分けることができる」イエスのことばは、計算的な赦しではなく、無限の赦しを要求してきます。
すなおに、イエスの要求に対して、「できません」と認めるしかありません。
人を無限に赦せない自分に絶望してしまいます。
そこから、やっと、自力をやめて、他力、即ち「できないことは何一つない」(ルカ 1・37)神に希望を置いて、赦せる力を願います。
ちなみに、毎日唱える主の祈りでは、「わたしたちの罪をおゆるしください。」と先に神からの無条件の赦しをいただいたうえで、神の恵みの実りとして、「わたしたちも人を赦します。」と決意を表明します。
まだ赦せなかったら、いつでも、赦せるようにお祈りができます。
祈りによって、一日も早く、赦せない重みから解放されますように。

年間第23主日 A年(2020年9月6日)

兄弟を得ること(マタイ 18・15)

家族、学校、仕事場、教会などで人が生活しているすべての場において、誰とでも神がくださる平和のうちに暮すのは難しいです。
イエスの弟子たちの間にも、しばしば争いが生じました。
そこで、イエスは「兄弟が罪を犯したなら」どうすれば良いかを教えてくださいます。
まず、感情的にならないように、「人に悪を行なわない愛」をもって行動します。
そして、罪を犯した兄弟を放っておくのではなく、「行って二人だけのところで忠告しなさい」と対話します。
一回だけではなく、離れてしまった兄弟と何回でも話しあって、神と共同体に立ち帰るように話し合います。
兄弟を得るために努力しなさいとイエスは言われています。
慎重に、尊敬をもって、優しい愛をもって、忠告します。
イエスが罪人や徴税人の友であったように、わたしたちも罪を犯した兄弟に近づいて、兄弟のため、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というイエスの約束を信じて、できれば、兄弟と一緒に祈ります。
キリストに結ばれた兄弟としての愛が増しますように。

年間第22主日 A年(2020年8月30日)

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マタイ 16・23)

おそらくすべての聖人についていえるのは、聖人それぞれに生き抜こうとした信念を示すような神のことばが存在するということです。
1506年4月7日、フランス国境に近いナバラ王国と言うバスク地方のハビエルの城で生まれたフランシスコ・ザビエルも例外ではありません。
世俗の野心から彼を回心させたみことばとは、今日の福音にあります。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
1525年パリのソルボヌ大学の聖バルバラ学院に入学し、1530年哲学教授の資格を得たとき、同室のイグナチオ・デ・ロヨラに何回も聞かされたことばでした。
1533年に大回心し、ロヨラとその仲間に加わり、1534年8月15日、仲間六人と、モンマルトルの丘で一生をキリストとその福音のために献げることを誓いました。
ちょうど十五年後の1549年8月15日に、マラッカで出会ったアンジロウと共に、43歳で鹿児島に着くことになり、日本人に主イエス・キリストの福音を告げ知らせました。
フランシスコ・ザビエルが1つのみことばによって回心されたように、あなたの心を動かし、あなたの内に深く入り込んで、あなたを導いてくださるみことばはありますか。

年間第21主日 A年(2020年8月23日)

あなたがたはわたしを何者だと言うのか。(マタイ 16・13~20)

個人的な話ですが、45年前に、日本に来た時に、自己紹介する際に、どういう名前でしたらよいか一ヶ月以上定まりませんでした。
呼んでいただける名前が安定せず、自分が存在しないかのように思えて辛かったのですが、日本の皆さんが知っている「ザビエル」と決まった時、ほっとしました。
お互いの呼び名はお互いを認め合うことです。
イエスも、弟子達に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロに倣って、わたしたちもイエスに対して、教科書で習った正式の名前ではなく、わたしたち、一人ひとりしか言い表せない呼び名で心からイエスを呼べたら素晴らしいことです。
今日も、イエスは「あなたは、わたしを誰だと言うのか」と尋ねてくださいます。
あなたは、どう答えますか。

年間第20主日 A年(2020年8月16日)

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ 15・21~28

娘が悪霊にひどく苦しめられているあるお母さんが、珍しく、イスラエルを出て異邦人の地に入ってきたイエスに娘の癒しを願います。
きっと、このイエスが人の病気を治す力を持っているという噂を聞いたのでしょう。
イスラエルの人々のようにまことの神を知らないが、神の人であるこのイエスに祈れば娘が助かると信じています。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」とイエスに褒められます。
なぜ立派なのでしょうか。
この母親が、諦めず、弟子たちに邪魔者とされても、イエスに冷たいことばを言われても、うまく抗弁して、信頼し続けるから立派な信仰です。
この信仰の原動力は、わが子の癒しを粘り強く願う愛そのものです。
わたしたちも、すべての人の救いを願い、もう既にかなえられているという思いで、飽きることなく、祈り続けられますように。

年間第19主日 A年(2020年8月9日)

イエスは群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。(マタイ 14・23)

たくさんの人々の体と心の飢えを癒されたイエスは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」て、ひとりになって、祈るために山に登りました。
毎日、人々の間、人々の中にいるイエスは、静かな所に退かれて、神への祈りをささげていました。
救い主からの癒しと赦しを待っている人が大勢いるのに、イエスはすべての活動を止め、よくひとりになって祈っていました。
わたしたちも、日常生活の場を離れ、静かに祈ることがとても必要です。
必要ですが難しい。
沈黙して祈れば、様々な雑念が出てくるが、気に掛けなければ雲のように去っていくのです。
ひたむきな心で、賛美と感謝をささげると、誰とでも平和のうちに暮らせる心をいただけます。

年間第18主日 A年(2020年8月2日)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみその中の病人をいやされた。(マタイ 14・14)

大勢の群衆の中に、大切にしている人、気が合わない人、好きな人、嫌いな人、皆、自分を含めて入っています。
皆、多少、イエスの憐れみを必要としていて、その憐れみを請いたい。
「あなたが可哀そうだ」という憐れみではありません。
苦しんでいる人、悲しんでいる人、当方に暮れている人を見て、「はらわた」からその人の苦悩を共感して、助けの手を差し伸べる憐れみです。
神はイエスを通して憐れんでくださるのですから、わたしも人の苦しみを共に感じられるように願いたいものです。
それができるならば、きっと自分の内面的な病が癒されます。

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