教会報の巻頭言
聖マルコ福音記者1
中嶋義晃
マルコはマリアと呼ばれるその母と共に使徒たちのよき協力者でした。マルコはペトロの説教を材料に福音書を書いて宣教の成果を上げ、また、パウロの布教伝道の手伝いをしました。
母マリアは迫害中にも使徒たちを自分の家にかくまって衣食住の世話をしました。
マルコは、イエス・キリストの時代にユダヤに生まれました。幼児のころ、父と死別し信心深い母マリアの手で育てられました。
その邸宅は広く、使徒たちやエルサレムの信者の集会場に当てられて、そこで祈りや礼拝が行われていました。定かではないが、ある古い伝承によると、主が設けられた最後の晩餐の席も、ご復活の晩、弟子たちに出現なされた場所も、また、聖霊がお降りになったのも同じ2階の広間であったと言われています。
とにかくそこで、まだ若年だったマルコは、キリストの信徒や弟子を初め、エルサレムの主だった信徒たちに出会い、ごく親しく彼らと交わっていたのです。マルコは、その当時はまだ若かったのでキリストの使徒や弟子の列には加わらず、後になっておそらく、ペトロから洗礼を受けたものと思われます。
その時代の風習に従って彼もまた、「ヨハネ」の他に、もう一つ「マルコ」というローマ式の名前を持っていました。そして初代教会の偉大な人材として著名なバルナバは、マルコのいとこにあたります。
ユダヤ地方は当時、相次いで大飢饉に襲われ、わけても、46・47年は、すさまじいものだったと伝えられています。この災害をアンチオキアのある預言者が予告したことがあり、当時の信者たちはさっそくエルサレム教会のために救助金を集め、これをパウロとバルナバに託して、二人を慰問の使いとしてエルサレムに送りました。
青年マルコが初めてパウロに会ったのは、ちょうどこの時であったと思われます。パウロとバルナバがアンチオキアに帰ってきた時、マルコも一緒でした。
聖霊の指示によって、アンチオキアの長老たちは、パウロとバルナバを選んで、外国宣教に派遣することになりました。そしてバルナバはこの壮途にあたり、いとこのマルコを伴いました。
一行はまず、バルナバの故郷キプロス島に渡って、活発な伝道を行い、その島の総督を改宗させました。次いで小アジア(現・トルコ)の大陸を目指し、ベルゲン港に到着します。
上陸後、伝道にかかろうとしたところ、一行の意見が一致せず、問題が起こってしまいました。マルコが長い旅に飽きてしまったのか、ホームシックになったのか、あるいは山中の困難や賊の危険を恐れたのか、それとも別の動機があったのかは分かりませんが、いずれにしろパウロと言い争いになってしまいました。その結果、マルコは一人エルサレムに帰り、パウロとバルナバは二人で旅を続けました。
教会報2025年5月号 巻頭言