2004年3月

回心の恵みを祈りましょう
鈴木三蛙神父

9年に及ぶ長い裁判が終わり、オウムの教祖松本被告に死刑の判決が出ました。
この裁判は何を目的にしたものだったのでしょうか。
被害者・遺族に対する一片の謝罪の言葉もなく、教祖が何を考え、何をしようとしていたのか、教祖自身の口から真相が語らることはありませんでした。
事件後オウムはアレフと名を替え、かつての教えとの訣別を表明していますが、未だに教祖の写真を飾っています。
松本被告が自ら罪を認めていない以上、教団の中では今なお教祖の教えに対する帰依は続いていくことでしょう。
死者の数は27人。後遺症に苦しみ続ける人々は数知れず、社会には大きな不安を残しています。

被害者の家族が「何回でも死刑にしてほしい」・・とコメントしていました。
その無念さは計り知れません。
では、どれだけ償わせれば怒りと悲しみは癒えるのでしょうか・・。
「死刑でも軽い」と被害者は語っていましたが、死者が生き返る事はないのですから、犯人を極刑にしたとて残されたものの悲しみが癒えることはありません。
いま、終身刑を設けようとする動きがあります。
終身刑と無期懲役は異なります。
終身刑は文字通り終身牢獄で罪を償わせる考え方ですが、無期懲役は平均20年ほどで出所します。
いのちを代償としても償うことが出来ないのだとすれば、一生かけて償いの時をもたせようというのがその趣旨です。

もしも松本被告が自ら罪を認めるようになり、その非を悟って衷心より謝罪するならば、あるいは被害者の心に、僅かなりとも癒されるものがあるかもしれません。
人は誰も、自分のいのちによってさえも本当の償い、十全な償いをすることは不可能なのです。

だからこそ神はひとり子を遣わし、十字架によって全人類の罪を購わせたのです。
とはいえ、わたしたちもまた、イエスの十字架に対する感謝の心をもって、不完全ながらも償いの意思表示をしなければなりません。
イエスが十字架の死までわたしたちを愛されたように、わたしたちも隣人を己のごとく愛することよって・・・。

悔い改めるところがなければ救いもないのです。本人のためにも被害者のためにも、是非とも回心の恵みを被告の為に祈りたいものです。そして、四旬節にあたり、わたしたち自身にも回心の恵みをともに祈りましょう。

教会報 2004年3月号 巻頭言

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