2004年11月
もっと祈りを
鈴木三蛙神父
祈りは神様との対話、諸聖人との対話です。
わたしたちは命日やお盆などの時に死者を身近に思い起こします。
でも多くの場合、わたしたちは死者を過去のものとして記憶するのではないでしょうか。
悲しみの時を経て、時間の経過とともに故人の記憶は思い出と変わってゆき、日々記憶される時間も短くなってゆきます。
しかし、亡くなった方々は・・と言うと、彼らはいつも今の私たちに関心を持っていることでしょう。
彼らにとって私たちはもっともっと身近に感じられているに違いありませんない。
なぜなら、彼らは、わたしたちがその名を唱え、イエスの前に取りついでくれるのを待っているからです。
自分の名がいつ記憶されるのかとわたしたちの唇を見つめているのです。
そして、わたしたちの口に彼らの名前が上り主の前に記憶されるとき、小躍りして喜ぶのです。
それからまた、次にいつ記憶されるのかと再びその時を待ち続けます。
それは激しく乾いたときのコップ一杯の水と同じです。
むさぼるように飲み干し、もういっぱいの水がいつ与えられるのか、激しい乾きの中で、乾いた舌がのどに張り付くのを感じながら、その時を待ち続けるのです。
自分自身のために功徳を積むことの出来ない煉獄の魂は、地上のわたしたちに祈りと功徳による助けを頼ります。
そしていつの日かわたしたちが祈りと功徳を必要とするとき、今度は彼らがわたしたちを助けてくれることでしょう。
11月は死者の月・・・。
わたしたちにとって故人となった人々・・でもわたしたちの目に見えなくなっただけで、彼らも主の前には生きておられるのです。
教会報 2004年11月号 巻頭言