2006年6月

ふたつの視線
齋藤紳二助祭

電車のつり革につかまって、読書に没頭していると、耳元でささやく声が聞こえました。
振り向くと、サラリーマンらしい青年が微笑んでいます。
一瞬、事態が飲み込めませんでしたが、席を譲ってくれようとしているのが分かりました。
その時私はそれほど疲れていませんでしたし、目的地に着くまで25分間立ったままでも平気でした。

礼を言って腰掛けてから、しばらく読書を再開するのを忘れて考え込みました。
なぜなら、60代半ばを過ぎるまで、席を譲っていただく経験がまったくなかったからです。

自分ではまだ活力にあふれていると思っていても、他人からは席を譲りたくなるような老人に見えるらしいことが、ちょっとショックでした。 

しかし、すぐにこの事態を受け入れようと思いました。
自分でどう思っていようと、他人の評価はまったく違うという体験を、社会生活の中で何度も味わってきました。
老人とみなされて当然の歳になった事実を受け入れなければならない、と思いました。

さて、老人であることを受け入れると、次の事態が迫ります。
もうそれほど遠くない将来に、この世の日々が終わるということです。
その時問題になるのは、もう一つの目、神の目に自分がどう映っているかということです。
これまで生きてきたプラスとマイナスを清算して、余りが出るでしょうか?
それも、自分の計算ではなく神の計算にゆだねられるわけです。

「これはえらいことになった」と感じました。
今後体勢を立て直して間に合うのかどうか。
せっかく譲っていただいた座席から、腰が浮いてしまいそうな気分にとらわれました。
そして、それから半月、まだ追い立てられるような気分がつづいています。 

こういうのを老いの繰言というのでしょうか?
読んでくださった方の迷惑そうな顔が目に浮かびます。

教会報 2006年6月号 巻頭言

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