2007年3月

苦しみの価値転換
藤田恵神学生

伊語では復活祭をpasqua(パスクア)と言います。
伊語はラテン語から生まれましたから、私は復活祭のイメージで、ラテン語の平和(pax=パックス)が語源か?と勝手に思っていました。

しかし、神学校でギリシャ語を学び、目からうろこが落ちました。
最後の晩餐が、今日のミサの源であり、それが過越しの食事であったことは、聖書の記述から解ります。
ギリシャ語は、過越祭のことをヘブライ語風にπασχα(paska・パスカ)と言います。
このπασχαが、仏語や伊語の復活祭の語源なのです。
そしてπασχαから派生した動詞πασχω(pasko・パスコー)の意味が、「経験する・苦しむ・苦難を受ける」と知ったとき、復活祭の深い意味が見えてきました。

復活の前には、すさまじく、むごいまでの受難があります。
イエス様は、苦しみ、あえぎ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、息絶えました。

私たちは日々の生活の中で、様々な苦しみに遭います。
飢餓や窮乏、無理解や差別。
その中で、最も辛い苦しみは「罪」です。

弱さゆえ、私たちは人間関係の中で他人を傷つけます。
それが負の連鎖となり、日々の生活に陰を落とし、祈れなくなることさえあります。
しかし、苦しみの目で十字架上のイエス様を見たとき、同じように苦しまれた姿があります。
その死が、私たちの罪を贖う尊い死であったことを感じた時、眼前の世界が変わります。

苦しみは私たちの内面を純化します。
かつて、イスラエルの民がエジプトでの奴隷から解放されたように、受難に預かることは、罪の奴隷からの解放-すなわちイエス様の復活の栄光に預かること-という180度の価値転換が起こるのです。
ペトロはこう書き記しています。
「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(一ペトロの手紙4・12—13)

私たちは今、四旬節を過ごしていますが、主の復活を祝うことの深い意味を見つめてみませんか。

教会報 2007年3月号 巻頭言

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