2007年11月

無理をせず、気楽に
鈴木三蛙神父

今朝は残念なニュースを聞いた。
重い心臓病の子どものために奔走し治療にこぎ着けるまでボランティアをした人が、援助した親に新しい子が生まれたときいて激怒し、これまでのボランティアに対する見返りとして800万円の支払いをを求め恐喝したというのである。
ボランティアは人に強制されてするのではない、志願兵の意味だ。
自ら消えようとする命のために手術代が集まるように努力した。
そして手術は成功しその子の命は助かった。
にもかかわらずその子の親に新しい命が生まれたことを憤る。
ボランティア精神は何処に消えたのか。悲しい話だ。

人は誰でも病気になる。
病気は一時的なものであれ長期に及ぶものであれ、健康な状態の喪失であるから、本人にとっては実に辛いものだ。

これが捻挫や骨折であれば誰の目に見ても尋常でないことが分かり、病状も尋ねるし心配もするが、しかし病気には心臓病や内臓疾患のように表に出ずよく分からないものもある。

その1つが統合失調症や躁(そう)病、鬱(うつ)病に代表される精神的病だ。
9月はじめから小生に鬱の症状が出て10月半ば精神科で見てもら鬱病と診断された。
まだ睡眠障害が出るほどの重傷ではないが、薬を飲めば楽になると言われ飲み始めて2日ほどで、症状は大きく改善された。

自分は無縁と思っていた鬱病になったことを今はとても良かったと思っている。
鬱のつらさが体験として知ったからだ。

ユダヤでは、体験してはじめて知ったという。
アダムがエワを知ったというのは、夫婦としての交わりを通じてエワを体験したということだ。
鬱を教科書で知っていても本当に知ったことにはならない。
頭の中で理解しただけだ。
病気を体験してそれがどのようなものか判る。
病気になって多くの人に声をかけていただいた。
慰めてくれる人、頑張って欲しいと言う人。
無理をするなと言う人。自分も同じ体験をしたと言う人。
声をかけてくださった皆さんに感謝したい。

中には統合失調症や鬱病になった人を、彼は精神病だからまともにつきあえないと言って差別する人もいる。
しかし、人は差別することによって優越感に浸り、おのれを卑しめる存在でもある。
風邪を引くのと同じく誰でもかかる病気だから、同じ病気の人には隠す必要はないよ・・・
と無理をせず気楽に病気と付き合うことを勧めたい。

教会報 2007年11月号 巻頭言

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