2008年5月

愛のある拒絶と愛のない拒絶
齋藤紳二助祭

先日、田園地帯のバス停でバスを待っていました。
そこへ、スクールバスが来て停まり、数人の小学生が降りてきました。
そして、ひとりの少女が出迎えに来ていた母親に向かって走りよりました。
このお母さんは先ほどから自転車の脇に立って、いかにも面倒くさそうな、いやな表情で待っていた人です。

娘が脚に抱きついて何か話しかけているのに、この母親はさっさと向きを変え自転車のハンドルをにぎると、娘が荷台にきちんと座ったかどうかを確認もせず、走り出しました。
少女が大きく体をそらせたので見ていてハッとしましたが、なんとか無事に走り去りました。

ふたりが見えなくなった後で、この子の家庭を思い浮かべて寒々とした気分になりました。
親子の間になにがあったのかは分かりません。
しかし、娘がいかにも甘えて話しかけている様子からして、母親の一方的な拒否だったように感じられます。
なぜ、あの母親は娘にひと言も言葉をかけなかったのか。
あの子にとって家庭は団欒の場ではないとしか思えませんでした。

ふと、訪ねてこられたマリアさまに会うのを、イエスさまが拒んだ、というエピソードを思い出しました。
こちらは子の側からの拒絶です。
「似ているようだが、どこか違うな……」としばらく思い巡らしました。
おそらくイエスさまの拒絶がより大きな愛のための拒絶であったのに対して、さっきの母親の冷たい態度は自己都合の拒否であったとしか思えません。
後に、十字架の上で母マリアさまのことを案じたイエスさまのように、あの少女も最後まで母親への思いを失くさないでいてくれるとよいのだが……
ようやく春を感じさせるそよ風に吹かれながら、そう思いました。

教会報 2008年5月号 巻頭言

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