2010年12月

キリストと歩いた真夏の待降節
齋藤紳二助祭

昨年、オーストラリアで催された青年の待降節ウォーキングに参加した若者から、素晴らしい体験談をうかがいました。

シドニー郊外から出発して市内の教会まで、一日中ひたすら歩く催しだったそうです。ところどころのスポットで立ち止まり、祈りのときを持ちます。そして、ギターの伴奏でクリスマス・キャロルや賛美歌を歌い、ロザリオを唱え、おしゃべりに興じ、ときには沈黙のうちに歩みを進めました。その中で、不思議な感覚を覚えたのだそうです。

自分たちが歩いている道はイエスと共に歩く道。「私たちの中にいるキリストが、私たちが歩むにつれてこの街を聖化している」と感じたと言います。オーストラリアの待降節は夏です。歩き続けていると日焼けし、靴擦れができ、体にはどんどん疲労がたまっていきます。小さいけれどこの苦しみを、この街のもっとも苦しんでいる人のために捧げたい……そうすれば、この歩みが誰かを癒し、慰め、励ますかも知れない……。

聞いていて、思わず自分とクリスマスの関係を振り返ってしまいました。受洗したころのクリスマスのミサは真夜中に始まりました。当時は車を持っている人がほとんどいませんでしたから、ミサが終わると歌を歌ったり、劇を演じたりして夜の明けるのを待って帰宅しました。私にとって、クリスマスは親公認で徹夜で遊べる夜でしかありませんでした。

社会人になると、ギリギリまで仕事をして近くの教会のミサにかけつけ、終われば仕事に戻ります。追いまくられる仕事の中で、いっときの息抜きがクリスマスのミサでした。

そして、聖職者の端くれに加えていただいてからは、クリスマスはミサの準備に追いまくられ、ミサが始まれば式次第を間違わないようにと緊張しつづけているうちに過ぎ去っていく一日となりました。

これまで私はキリストと共に働いていると感じたこともなく、クリスマスを単なる年中行事としか考えてこなかったような気がします。ひとつのことに一心不乱に打ち込むことで、キリストと一体化したと感じたこの青年を、心からうらやましく思いました。

教会報 2010年12月号 巻頭言

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