2015年12月

「いつくしみの特別聖年」を迎えるにあたって
ペトロ 岡田武夫大司教

2015年12月8日から始まる『いつくしみの特別聖年』を迎えるにあたり、さいたま教区の皆さんにお勧めと励ましの手紙を送ります。

教皇フランシスコは「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という大勅書によって、この特別聖年の意義を説明しています。

人となった神、イエス・キリストにおいて、神のいつくしみは余すところなく示されています。御子を見る者は御父を見るのです。イエス・キリストを見る者は神のいつくしみ深い神を見ます。教皇フランシスコはわたしたちが主イエスを通して現れた神のいつくしみをより深く悟り、喜びのうちに神のいつくしみを人々に伝え現すよう、わたしたちに呼びかけています。

神のいつくしみは、神がわたしたち罪人の罪をゆるし、傷と痛み、病をいやし、わしたちを清め活かし、聖である神の懐へと導きます。
神のいつくしみをより深く知るためには、よく祈り、聖書をより深く味わい、またゆるしの秘跡、聖体の秘跡に心を込めて与らなければなりません。

神のいつくしみはまず、有名な放蕩息子の話にあるように、何より罪人を受け入れゆるす神の愛として示されています。放蕩息子は父のもとに戻りました。父は息子をいつくしんで喜びのうちに迎え入れます。わたしたちも洗礼やゆるしの秘跡によって罪のゆるしを受けました。確かに神は罪を悔い改める者をゆるします。しかし、罪のゆるしを受けたものがまったく問題のない、清く聖なる者とされたのではないことをわたしたちは知っています。過ちや罪をおかした者はお詫びの償いをしなければなりません。さらにまた、わたしたちにうちには罪への傾きと執着が残っており、わたしたちは自分自身の中に不一致と分裂を抱え、霊と肉の葛藤に悩んでいます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。それに対して肉の業は、聖霊に働きに逆らう状態であり、わいせつ、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、仲間争い、ねたみなどです。( ガラテヤ5・19-23参照 )
わたしたちは罪のゆるしを受けてからも肉のわざとたたかい、自分の清めのための戦いである償いをしなければなりません。教会の歴史を見ると、かつて肉体の苦行を伴う重くて長期間にわたる償いが課せられましたが、やがて、祈り、善行、断食、施し、教会訪問などによる償いに替わってきました。

このたびの特別聖年に際して教皇フランシスコ9月1日の書簡(=中央協議会のホームページにある)において「免償」(=教会が定めた条件のもとに償いの効果をもたらす罰を免除すること。罰とは罪そのものが必然的にもたらす、人を苦しめる悪の結果。回心による償いのわざは人をその苦しみから解放する『カトリック教会の教え』220~1頁参照)について語っています。この手紙によれば、「免償」についての教皇の意図は、「免償」を通して人が神のいつくしみに触れる機会を持つように、という点にあります。具体的な償いと清めのわざと行うことにより、わたしたちは神のいつくしみに与り、さらに神のいつくしみのわざを人々のために行う人となるのです。

この恵みに与るために例えば次のような清めと償いの行いが勧められます。▷指定された聖堂(=カテドラル浦和教会、前橋教会、松が峰教会、水戸教会)へ巡礼し、「いつくしみの扉」を通り、聖体を訪問して所定のお祈りをし(教皇による特別聖年の祈り)信仰宣言を唱える。▷司祭からゆるしの秘跡を受け、また聖体拝領をする。▷聖書によって神に慈しみを深く黙想する。▷神のいつくしみにかなった行いを実行する。
神のいつくしみを現し伝える行いは、それが霊的なもの(煉獄の魂のための祈りなど)であれ、体による善行であれ、それぞれがそのたびに「免償」を得る機会となります。
教皇は、病気、老齢、そのほかの理由で教会訪問できない人々や、刑務所から出ることのできない囚人も神のいつくしみを受けることができる具体的な道を示しています。
また胎児の生命を犠牲にせざるを得なかった人々に対しても、神のいつくしみを説き、ゆるしの秘跡を受けるよう励ましています。

教会報 2015年12月号 巻頭言

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